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他者を感じる力

わが家は長女(7歳)・長男(4歳)・次男(0歳)と妻・私の5人家族。今日、両親が暮らす実家とは目と鼻の先、スープが冷めない距離に暮らしている。長女と長男はよくけんかをする。仲良く遊んでは最終的におもちゃを奪い合う。おもちゃの所有権争いがはじまるのである。これはデジャビュ(既視感)かと思うほど、同じけんかを繰り返す。まるで戦国時代のようだ。「けんかするほど仲がいい」というがはたして。

あまりにけんかが激しいので、ある日の朝枕元で戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の教えを引用して話をした。「一本の矢は折れやすいが、三本の矢を一緒にすると折れにくい。もしもお父さんが死んでしまったら、きょうだい3人力を合わせて生きていかなければならないのだよ。」

ふむ、幼小の子どもたちには時期尚早かもしれないが、われながらいい話をした…と思って長女をみたら、今にも泣きそうになっている。えぇぇぇ、なんで!長女が涙ぐみながら言うのである。「イヤだ、イヤだ、お父さん、死んじゃうの?」…え、そこ?いやいや、娘よ、まだまだお父さんは頑張って生きますよ。もうけんかの話はどうでもよくなって娘をギュっと抱きしめた。

前置きが長くなったが私は子どもと名言が大好きである。そして、名言といえば論語。

先日、学校から帰ってきた小学1年生の長女が宿題の論語素読をしていた。「子(し)曰(のたまわ)く。過(あやま)っては則(すなわ)ち改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ。」「先生がおっしゃいました。まちがったらすぐ改めるようにしなければならない」…。意味も一緒に覚えるとのことで何度も繰り返し練習をしていた。テキストは「親子で楽しむ庄内論語」。「この本の表紙題字はおじいちゃまが書いているのだよ。」と教えると、「ふーん、そうなんだ。」と何ともつれない返事である。先日の朝の涙は何だったのだ?と思いつつ、素読の練習に付き合った。

さて、長女と素読した「過っては則ち改むるに憚ること勿れ(過則勿憚改)」。論語を学び直すべく庄内論語、論語抄、論語抄小解等の文献を紐解いてみた。「過則勿憚改」は論語の學而(がくじ)第一、そして子罕(しかん)第九でも繰り返されている。孔子は学道における重要な心構えとして門人たちに何度も諭(さと)したのだろう。そして、衛靈公(えいれいこう)第十五には「子曰く。過(あやま)って而(しこう)して改(あらた)めざる。是(これ)を過(あやま)てりと謂(い)う。」とある。人は誰でも過ることはある、過ちを知って自省して新たな一歩を踏み出すことが大切である、それができずにいると本物の「過ち」になってしまうと教えたのである。

何か過ちがあれば他者にどう思われるか心配になったり、隠したり飾ったり、自分自身が悔しくなったりで、たくましい一歩がなかなか踏み出せない今日。はたして昔の人たちもそうだったのだろうか。人間の本質は変わらないということか。

我が家には大人・子ども共通のルールがある。「間違ったらできるだけ早く素直に謝ること」。そう、これぞまさに「過っては則ち改むるに憚ること勿れ」ではないか。これがなかなか難しい。自分の過ちに気づけない。自分は正しいと信じている。非を認めることができない。変なプライドが邪魔をするのだ。心にとどめておくべきは物事の正解は一つだけではなくて、無数に、ひょっとしたら人の数だけあるのかもしれないということ。そこで「他者を感じる力」が必要となってくる。相手の立場になって考える。視点や目線を変えてみて、それでも自分は正しいか?
自分の間違いに気づきすぐに素直に謝り、改める。それが家庭円満、ひいては社会円満の秘訣なのかもしれない。「ごめんね」「もうしないでね」で終結し、すぐにまた繰り返されるわが家の子どもげんかもこれから少しは回数が減るのかな。それはそれで… 寂しい。

 2019年(平成31年)3月17日(日曜日)山形新聞 総合2面 日曜随想11-③