庄内藩略年表
1601(慶長6) | 徳川家康が最上義光に庄内3郡と由利郡を加増。 | |
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1603(慶長8) | 大宝寺を鶴岡、東禅寺を亀崎、尾浦を大山と改称、鶴岡の町割を実施。 | |
1608(慶長13) | 新関因幡守がかんがい講を開さく。(因幡堰) | |
1610(慶長15) | 工藤掃部が青龍寺川を開さく。 | |
1612(慶長17) | 北楯大学がかんがい講を開さく。(北楯大堰) | |
1614(慶長19) | 鶴ヶ岡城で一栗兵部の乱が起る。 | |
1622(元和8) | 最上家が藩政不行き届きで領地を没収される。 | 第3代 忠勝 |
1623(元和9) | 鶴岡の町割をはじめる。 | |
1632(寛永9) | 加藤忠広が罪によって庄内へ流され、丸岡に幽閉。監守にあたり2千石加増、14万石となる。 | |
1647(正保4) | 忠勝江戸にて卆す。享年54歳。 | 第4代 忠当 |
1652(承応元) | 鶴ヶ岡城二の丸の追手門を建て、追手橋の架けかえををなす。 | |
1653(承応2) | 加藤忠広、丸岡にて死す。 | |
1664(寛文4) | 田川・櫛引・遊佐の3郡を田川・飽海の2郡に改める。 | 第5代 忠義 |
1668(寛文8) | 大山酒井忠解卆す。嗣子なきため改易となり、翌年大山領は公領となる。 | |
1689(元禄2) | 6月3日、松尾芭蕉が荘内に来る。 | 第6代 忠真 |
1702(元禄15) | 3月、第6代忠真、預り中の本多出雲守の取り扱いに落度あり、閉門謹慎。4月、解かる。 | |
1731(享保16) | 忠真江戸にて卆す。 | 第7代 忠寄 |
1749(寛延2) | 忠寄、老中を命ぜられる。(明治元年まで15年間在職) | |
1755(宝暦5) | 奥羽大凶作「宝五の飢饉」という。 | |
1766(明和3) | 忠寄卆す、忠温継ぐ。 | 第8代 忠温 |
1767(明和4) | 忠温卆す、忠徳継ぐ。 | 第9代 忠徳 |
1792(寛政4) | 吹浦・今泉・鼠ヶ関に外国船見張番所を設ける。 | |
1796(寛政8) | 農政改革を実施。 | |
1805(文化2) | 藩校致道館が落成。(大宝寺) | 第10代 忠器 |
1807(文化4) | 蓮台火事、市内1300戸を焼く。 | |
1811(文化8) | 土屋丑蔵、虎松兄弟の仇討一件。 | |
1816(文化13) | 致道館を十日町口に移築、9月落成。 | |
1833(天保4) | 大凶作、地震津波あり。合積を実施。 | |
1840(天保11) | 幕府より庄内藩酒井を越後長岡へ、川越藩松平を出羽庄内へ、長岡藩牧野を武蔵川越へ、各々転封を命ぜられる。庄内領民これを阻止せんと大規模な反対運動を起す。これを「天保おすわり事件」という。 | |
1841(天保12) | 7月、転封中止。 | |
1842(天保13) | 忠器病をもって隠居、忠発継ぐ。 | 第11代 忠発 |
1843(天保14) | 印旛沼疎水工事を命ぜられる。 | |
1844(弘化元) | 幕領の百姓が荘内藩の領地になることに反対し、大山騒動を起す。 | |
1859(安政6) | 庄内藩が蝦夷地の警備を命ぜられ、派兵。 | |
1861(文久元) | 忠発病をもって隠居、忠寛継ぐ。 | 第12代 忠寛 |
1862(文久2) | 忠寛病没、忠篤10歳にて継ぐ。 | 第13代 忠篤 |
1863(文久3) | 庄内藩、江戸市中取締を命ぜられる。 | |
1864(元治元) | 庄内藩、庄内の幕領地を加増され、17万石となる。 | |
1867(慶応3) | 改革派の首謀者を処罰。(大山庄太夫一件) | |
1868(明治元) | 戊辰戦争、庄内藩兵が政府軍と闘い善戦するが、9月26日に降伏謝罪。 | 第14代 忠宝 |
1869(明治2) | 会津若松・盤城平に転封を命ぜられたが中止となり、献納金を納める。大泉藩となる。 | |
1870(明治3) | 忠篤、西郷隆盛の人徳に感じ、藩士を引きつれて鹿児島に留学、翌年帰る。 | |
1871(明治4) | 廃藩置県、大泉県(のちに鶴岡県と改称)となる。 | |
1872(明治5) | 忠篤、兵学修行のためドイツ留学。 | |
1873(明治6) | 忠宝、法律修行のためドイツ留学。 | |
1876(明治9) | 鶴岡・置賜・山形の3県が統合し、山形県となる。 | |
1879(明治12) | 忠篤・忠宝、ドイツより帰国する。 | |
1880(明治13) | 忠宝隠居し、兄忠篤に再び家督を譲る。 | 第15代 忠篤 |